駆け足で見る宝塚歌劇

 1910(明治43)年3月、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄宝塚本線および箕面線)が開通、梅田から箕面、宝塚への交通が拓かれた。同社専務であった小林一三(1873-1957)主導の下、乗客数を増やすため、沿線の住宅地開発と共に、箕面動物園、宝塚新温泉の営業が始まる。宝塚には何か目新しい呼び物が必要となり、冬期は劇場、夏季は日本初の室内プールとなる壮麗な洋風建築「パラダイス」が建設されたが、このプールが大失敗。そこで考えられたのが、三越少年音楽隊を模した唱歌隊であった。

 1913(大正2)年7月、少人数編成の少女による宝塚唱歌隊を組織、12月に宝塚少女歌劇養成会と改称、1914(大正3)年4月1日、当時まだ珍しかったオーケストラ伴奏を伴い、第1回公演が上演された。演目は、歌劇『ドンブラコ』、喜歌劇『浮れ達磨』、ダンス『胡蝶』。


 経営の陣頭指揮を執った小林一三が提唱した「新しい国民劇の創成」という理念の下、オペラ、レビュー、歌舞伎、新劇など様々な要素を取り入れながら、独創的な舞台の世界を拓いていった。その実現の背景には、設立当初から指導者に優秀な人材を招聘・採用し、音楽教育の基礎をしっかりと確立すべきとした信念があり、1918(大正7)年から声楽、器楽、舞踊の三部にて授業を行う。1919(大正8)年には私立「宝塚音楽歌劇学校」を設立(文部省認可は1918年)、新たに宝塚少女歌劇団として発足。1939年に宝塚少女歌劇団と学校を分離、1940年、現在の名称である宝塚歌劇団となった。

 1918年からは帝国劇場を皮切りに東京公演も実現、1934年1月1日には東京宝塚劇場が開場する。また、1938年からは海外公演も行っている。

[参考資料]
伊井春樹著「小林一三は宝塚少女歌劇にどのような夢を託したのか」ミネルヴァ書房, 2017.7
兵庫県立美術館, 日本経済新聞社編集「宝塚歌劇100年展 : 夢、かがやきつづけて : 宝塚歌劇100周年記念」日本経済新聞社, 2014.3