2. Erbarme dich

1-2 『マタイ受難曲』BWV 244より 第39 (47) 曲アリア「哀れみたまえ」 メンデルスゾーン版による

 マタイ福音書の第 26・27 章に収められたキリスト・イエスの受難物語に付曲された『マタイ』BWV 244、第II部からのアリア。そのテキストはしかし聖書記事からとられたものではなく、聖書詞句に対するいわばコメントの形で記された宗教詩である。
 問題はひとりバッハの作法に限定されるものではないが、しかしとりわけてバッハにおいて重要な鍵を握るのは、典礼に用いられる音楽におけるこの宗教詩の果たす役割であって、これには特に以下の三点が付曲に際してのポイントになる。
1. バロック時代に多作されたレチタティーヴォとアリアの関係。
2. コラール。
3. アリア等に供される宗教詩。

 上の 1 はバロック時代に一般的に用いられた形態であり、声楽曲の一作法に過ぎない。この形態によって意図されるのは、何等かの事柄を巡る叙述・説明・レポート等の役割を担うレチタティーヴォに対して、続くアリアはレチタティーヴォにおいて概説された事柄に内在する本質的意味について、或いは叙述に用いられたテキスト中の或る表現・単語を取り上げてその意味を掘り下げて行く。
 今回歌われるアリアは、これに先立つレチタティーヴォにおいてレポートされた聖書記事に関する神学的解釈をなしている。
 このことに関連して記憶されなければならないのは 2 として挙げられたコラールが教会に集う人々の、いわば一般的意見として聖書記事に対する応答がなされるのと意を異にして、アリアは個としての人間存在の声を聴き手に届けるという点である。
 バッハは明確な形では古代ギリシアに遡る悲劇を書いてはいないが、その筆になる『マタイ』『ヨハネ』におけるコラールにはギリシア悲劇のコロスの役割に対応するものが認められ、他方のアリアには悲劇の登場人物の個的モノローグに連なるものが存在する。
 アリア “Erbarme dich” は、マタイ福音書第26章の末尾に置かれたペテロの言動に内在する信仰への問を問い歌うものであり、楽曲としての形態は、バロック期に確立された協奏曲の緩徐楽章に、ヴァイオリンの独奏部分をオブリガードとして扱いつつ歌のパートを嵌め込んだものである。
 資料1 に明らかなように、捕われ裁かれるキリスト・イエスに対して、裁きの場に居合わせた人々から訊かれてペテロはイエスに従う者ではないことを明言する。この、ペテロの否定の言の背後には、やがてキリスト・イエスが架けられることになる十字架刑、即ち死への恐れが存在する。
 死への恐れは無論ペテロにのみ存するものではなく、人間一般の意識に内在するものであり、その意味でペテロは人間という存在の内奥を人々の目前に彫琢する一個の象徴である。
 聖書記事はしかし、鶏の声によって自己の在る姿を改めて深く認識したペテロの心を記して「外に出て激しく泣いた」という。泣くことは悔い改めを、別言して存在の転換を意味するものであって、ルターの考えに、更にはバッハの思念にとって決定的に重要な鍵を握ることばのひとつであった ― 存在の転換は、ひとつの世界から他の世界へと、人間的自己の本能の世界から神的世界へと、死の世界から新たな生命の世界へと、自己の存在の場を移行させることに他ならない。とは言え、この存在の転換それ自体もまた、ひとり人間の力によって果たされるものではなく、人間を超えた聖なるものの働きに支えられ衝き動かされることによってのみ達成される ― その転換を可能にするべく神の働きが人に及びますよう祈り願う人の心の声こそが「憐みを」Erbarme dich の短いことばであって、聖書記事が告げる「外に出て」という文言こそがひとつの存在状況から、これを超えて在る異なる世界への超出を密かに語り出しているのである。
 テキストの “Erbarme dich” はラテン語ミサ典礼文における “Kyrie eleison” をドイツ語訳したものである。
 『マタイ』では第 1 曲にコラール “O Lamm Gottes unschuldig”(罪なき神の子羊)が使用されているが、このコラールの詞もラテン語ミサ典礼文の “Agnus Dei qui tollis peccata mundi”(人の世の罪を取り除く神の子羊)のドイツ語訳であって、その限りでは三行詞の形をとるミサ典礼文の “Kyrie” 章の内の二行目に置かれた「キリスト 憐みを」Christe eleison に “Erbarme dich” は直接すると判断し得るであろう。
 だが実際には “Erbarme dich” のアリア詞ではキリストへの祈りを基に神への呼びかけが繰り返して歌われる。
Erbarme dich mein Gott 憐みたまえ わが神よ

 ここで「わがキリストよ」に代わって直接的に神への呼びかけがなされたのは、察するに、キリスト自身が十字架上で旧約聖書の詩篇 22 の冒頭を飾った神への、深い問を含んだ呼びかけ「わが神、わが神、何故私を見捨てますか」Mein Gott, mein Gott, warum hast du mich verlassen を口にされた、その呼びかけに結びつけてのことであると言えるであろう。死に臨んでの神の救いへの問は、いわゆる隠れた神の働きとして捉えられる、ルターの神学思想における一中心点をなすものであり、同時に、十字架に架けられたキリスト・イエスの中にこの隠された神の働きを認識し得るか否かはバッハの創作の世界において決定的な意味を持つものであった。
 恐らく言い換えて “Mein Gott,mein Gott erbarme dich” となるであろうアリア詞に込められた神学の響きには、聴く者の魂の傾聴を促して止まないものがあると言わねばならないであろう(資料2 )。
 他方で、このアリアには、上の神学と深く結び付いて目には見えない形で受難のコラール “O Haupt voll Blut und Wunden”(主の御頭は血と傷にまみれ)が組み込まれている (譜例3・4の青線部)。『マタイ』の中で繰り返して歌われるこのコラールをアリアに忍ばせた作法に基づいて言えば、「神、憐みを」のアリアは当該の受難のコラールに支えられた一種のコラール幻想曲であると言い得る、のみならず、アリアの全体を覆って流れるソロ・ヴァイオリンのパートには『ロ短調ミサ』の中の “Credo” 即ち神への信仰 credo を述べるクレド章のテキストの一部、et incarnatus est(神の子であると共に人の子として「受肉された」キリスト・イエス)の付曲に用いられた旋律素材 figura (譜例3の赤線部)が、これも直接的には目に見えない隠された神の働きとして組み込まれている。歌われる憐みの嘆願に対して、天上から地上に到来されて受肉されたキリストの十字架の痛み “O Haupt voll Blut und Wunden” が、祈念する人の魂の声を包み込んで罪の世界からの超出を支えるのがこのアリアである。

譜例3

譜例4

譜例5

 なお今回の歌唱に用いられるメンデルスゾーンが手を加えて一部を変更した版では、19 世紀の演奏美学を反映してのことか、ソプラノによる舞台効果が求められ、その結果としてバッハが「アルト」に託して表明した内なる魂の祈りは舞台裏に置き去られることになったと言い得るであろう。
 具体的に変化の筆が及んだところの一部を添付の譜例3 の緑線部及び譜例5 に見ることが出来る。装飾音の変更 (譜例3の緑線部)、外的強調のための音域の変更 (譜例5)。アリア後半での突然のオクターヴ上への旋律の変更は、外的効果の追求の他にその意味を見い出すことはおそらく不可能である。古代ギリシアからローマへと継承された、キケロの『弁論家』に代表されるであろう修辞・弁論の作法 ars poetica に基づいて形成されたバッハの、表されるべき事柄それ自体の内的形象の外化を旨とした音楽は、こうして人為的・外的表現の誇張へと席を譲ることになった … メンデルスゾーンが手にした筆によって異なる色合いに塗り直された受難のフレスコ画を前にして、しばしば強調・讃美されるメンデルスゾーンによる『マタイ』の復活を簡単に口にすることは出来なかろう。

Erbarme dich, mein Gott
um meiner Zähren willen
Schaue hier
Herz und Auge weint vor dir bitterlich

憐れみたまえ、わが神よ
溢れ流れる私の涙を目にされて
見たまえよ
心もまなこもあなたの前に激しく泣いていますのを