伊福部昭プロフィール
- 1914年 (大正3年)
- 1920年 (大正9年)
- 1926年 (大正15年/昭和元年)
- 1932年 (昭和7年)
- 1933年 (昭和8年)
- 1935年 (昭和10年)
- 1936年 (昭和11年)
- 1940年 (昭和15年)
- 1941年 (昭和16年)
- 1943年 (昭和18年)
- 1945年 (昭和20年)
- 1946年 (昭和21年)
- 1947年 (昭和22年)
- 1948年 (昭和23年)
- 1950年 (昭和25年)
- 1951年 (昭和26年)
- 1953年 (昭和28年)
- 1954年 (昭和29年)
- 1956年 (昭和31年)
- 1968年 (昭和43年)
- 1974年 (昭和49年)
- 1976年 (昭和51年)
- 1980年 (昭和55年)
- 1985年 (昭和60年)
- 1987年 (昭和62年)
- 1996年 (平成8年)
- 1997年 (平成9年)
- 1998年 (平成10年)
- 2003年 (平成15年)
- 2006年 (平成18年)
5月31日 北海道釧路町 (釧路市の前身) に生まれる。
9月、3月5日 生まれとして出生届を提出、1年早く尋常小学校へ入学。
札幌第二中学 (北海道札幌西高等学校の前身) に入学。後の音楽評論家で、親友となる三浦淳史と出会う。
4月、北海道帝国大学 (北海道大学の前身) 農学部林学実科に入学。この頃、後の作曲家早坂文雄と出会う。
三浦淳史が手紙のやり取りをしていたスペイン在住のピアニスト、ジョージ・コープランドのために《ピアノ組曲》を作曲し送る。
3月、大学卒業。10月、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務。《日本狂詩曲》がチェレプニン賞の第一席入賞。
4月5日、ボストンでフェビアン・セヴィツキ指揮、ピープルス交響楽団によって《日本狂詩曲》初演。チェレプニンの滞在する横浜で作曲と管弦楽法を教わる。
林務官の職を辞して、北海道帝国大学の演習林事務所に嘱託として勤務。
江口隆哉門下で札幌出身の舞踊家・勇崎アイと結婚。
《交響譚詩》がビクターの「第二回管弦曲懸賞」に第一等入選。
宮内省帝室林野局林業試験場に勤務。
栃木県の日光・久次良町に転居。東京音楽学校 (現東京藝術大学) 学長に新任した小宮豊隆に招かれて作曲科講師に就任。管弦楽法を教える。
東京都世田谷区玉川等々力町に転居。8月5日、初めて映画音楽『銀嶺の果て』公開。
世田谷区玉川奥沢町に転居。
世田谷区玉川尾山町 (現尾山台) に転居。
『音楽入門』 (要書房) 刊行。
東京音楽学校の音楽科講師を退任。『管絃楽法』 (音楽之友社) 刊行 (上下巻の上巻の増補部分を除く部分)。
11月3日、『ゴジラ』公開。『シンフォニア・タプカーラ』作曲、三浦淳史に献呈。
毎日映画コンクール音楽賞受賞。
『管絃楽法』 (音楽之友社) の上巻増補改訂版と下巻刊行。
4月、東京音楽大学作曲科教授就任。
4月、東京音楽大学学長就任。
4月6日、前年に改訂した《シンフォニア・タプカーラ》改訂初演。紫綬褒章受章。
4月、東京音楽大学民族音楽研究所所長就任。
勲三等瑞宝章受章。
第17回日本文化デザイン賞大賞受賞。
3月、東京音楽大学退官。4月、東京音楽大学名誉教授。
4月、東京音楽大学付属民族音楽研究所名誉所長。
文化功労者顕彰。
2月8日、逝去。没後、従四位に叙された。